南部砲台跡 - Southern battery remains
この南部砲台は、小島の中で一番南側の砲台で規模も小さかったが、馬島から糸や間間の来島海峡を防衛する配置にあります。
当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジアへの進行に対して、国内の沿岸に防衛隊製として要塞の配備を進めました。
石垣の石は、当時1個が3銭で、妊婦の賃金が27銭であったと伝えられ、小島要塞の全構築費用は、当時の金で
30万円であったと言われています。
砲台の設計図は、陸軍工兵大佐<上原勇作>(後の上原元帥)によって製作されました。
整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900年)に
終わったとされています。
大砲の備え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し
近辺の地域住民にも守秘を強いていました。
南部砲台跡には、竣工当時は軽砲(12cm-加農砲(カノン砲))2門が備え付けられました。
現在は砲座跡と地下兵舎が残るのみであります。
by no_doiken_no_life
| 2013-06-16 12:28
| Architecture